おたくの文章

ミーハーです!

生活も仕事もとんでもなく忙しく、いろいろと書きたいことがあったのに3月が終わってしまった。

近頃はまたハイキュー!を読み返している。一昨年頃からずっと熱を上げている作品なのだが、本当に何度読み返しても面白い。

男性キャラクター同士が悪辣な表現や女性への性的な興味関心を挟まずに、素直に好意を示したり、ケアしあったりする表現が自然になされていて、そこが少年漫画として新しいと思う。(ただ、少数のキャラクターについてはホモソーシャルな表現が多分に含まれるし、最後まで"解説役の男"と"バレー初心者の女"という構図が繰り返し何度もしつこく登場する点については残念だと思っている)そして、私達が生きる現実社会での部活動につきものである髪型・服装問題や先輩と後輩間/教師・顧問と生徒間のハラスメントについて、よく練られてから漫画表現に落とし込んでいる点も好ましい。

これらの細かな、少年漫画というジャンルに属す作品としてたいへんよく考えられた表現を見つけるたび、作者の古舘春一氏がバレーに対する愛情を込めてこの作品を作っていることを感じ、胸をときめかせている。

そして、私がハイキュー!に胸をときめかせているもう一つの要因は、登場キャラクターの一人の木兎光太郎にある。

私は彼のことをAROACEだと感じている。

木兎光太郎は作中一貫してバレーというスポーツにしか興味を抱かない。そして、それぞれの人物に対しても、バレーを通してしか興味を抱いていないように見える。

人間関係の面白さを知るよりも先にバレーの面白さを知った影山ですら、チームメイトの大切さを悟るような場面があった。しかし、木兎はチームメイトに置き去りにされてもバレーの楽しさ(≒上手さ)を追い求め、結果的には梟谷の面々のようなユニークなチームメイトに恵まれたものの、木兎本人がそのような人間関係を心から求めたかどうかは描写されることがない。それを古舘春一氏は「怖い」と表現しているが、私はこれらの描写に深く共感してしまう。

部活動やサークルに参加すると、なぜか全く分からないが人間関係のあれこれに巻き込まれる。その多くは私にとっては少しも興味がない恋愛による人間関係の変化が原因だ。誰と誰が付き合ったとか、誰が私を好きだとか、私が誰を好きだとか、全然聞きたくも話したくもない話題に巻き込まれる。そういえば、就職してからも同期二人と食事に行ったら「誰それがあなたのこと気になるって言ってるんだけど、あなたはどう?」と聞かれて、「そういう話題に少しも興味がないから、申し訳ないけど巻き込まないでほしい」と返したら困った表情で顔を見合わせていたことがあった。その後職場を辞めるとき偉い人に「思春期の部活やなんかじゃないんだから、恋愛に巻き込まれるのは本当に困るしやめてほしい」と訴えたけれど、きっとこの訴えが本当の意味で理解されることはないだろう。それほどに、この社会の多くの人々は人と人とが恋愛を行うのは当たり前の常識だ(そして、この"人と人"には男性と女性が当てはまる)と考えている。

そんなことよりも、私は歌を歌いたかったし、絵を描きたかったし、音楽を聞きたかったし、もっといろんなことに打ち込みたかった。木兎光太郎は、私が抱くその願望の姿かたちをしている。ハイキューにおいて、木兎は「人生の全部がバレー」である人物として描かれている。

木兎はバレー以外のことにはほとんど無頓着だ。幼少期にバレークラブで「楽しい」を追求しようとアドバイスされた、それ以外のことにほとんど興味がない。月島や谷地、赤葦などバレーを通じて相対する人の考えを見抜けるだけの観察力や、試合中の1秒にも満たない瞬間の的確な判断力は描かれているのに、会話をする際のボキャブラリーは極端に少ない。加えて、校舎にある消防用の非常ベルを押したらどうなるかを高校生にもなってから実験するほどの世間知らずである。きっと、木兎はこれまで本当にバレーばかりをしてきたのだろう。

このように「人生の全部がバレー」として描かれている木兎の姿が、私には本当に眩しく映る。木兎光太郎がAROACEだったらと願ってしまう。人と付き合ったり、キスしたりセックスしたりするよりも、バレーをするほうがすごく楽しいと言い切れる人生であってほしい。

人間関係に巻き込まれない、最高に楽しいバレー人生を送ってほしい。

 

3月が終われば繁忙期も終わると思って書き始めたけど、全然ずっと繁忙が続いている。ハア……とっても疲れたね。

でもこのまえ『同居人の五杯目』の2巻が出ていたので、読むのを楽しみに頑張ります。ハイキュー!もまた最初から読み返すぞ〜!