おたくの文章

ミーハーです!

アンジュルムについて

アンジュルムというアイドルグループがいる。

モーニング娘。(正式にはモーニング娘。'22)などが所属しているハロー!プロジェクトのアイドルグループだ。

 

私はアンジュルムをきちんと知ってからまだ一年強、ライブも昨年春の名古屋公演(風公演)しか行ったことがないような「超ライト新規オタク」だ。

それでもU-NEXTで過去のハロコンを見たり、YouTubeでOMAKE CHANNELなどを見たり、竹内朱莉さん推しのハロヲタから各種ライブの円盤を貸してもらったりして、すっかり気持ちは「好き」に落ち着いている。

そんな私が今現在、アンジュルムをどうして好きなのか、後に見返す目的もありつつ、書いていきたい。

 

私が最初にアンジュルムという衝撃を浴びたのは、前述の竹内朱莉さん推しのオタクから和田彩花さんの卒業コンサートを見せてもらった時だった。和田彩花さんが所謂「卒業ドレス」を着てステージに上がった瞬間のことだ。

「えっ! めちゃくちゃかっこいい!」

素直にそう声を上げてしまうくらいには、私の中で衝撃だった。私が日本の女性アイドルに抱くイメージとは全く違うアイドルがそこにいたのである。

「もっと早く出会いたかった〜!」

ライブ映像を見終えて、友人に言った言葉だ(そしてこのあと何度も言うことになる言葉でもある)。

 

そもそも、私が日本の女性アイドル(ひいてはさまざまな女性グループ)に抱いている印象といえば「彼女たちの笑顔を求めるオジサンの姿が頭にちらつく」「彼女たちが元気でいることを求めるオジサンの姿が頭にちらつく」というものである。

これは主に男性プロデューサーなどが女性グループを束ねていることを前提とした私の勝手な「イメージ」であるため、現実に即しているかどうかはひとまず問題としないでほしい。しかし、海外では「カッコよさ」を軸に置いてパフォーマンスするグループが、なぜか日本ではキラキラの笑顔で明るい配色の衣装を着たパフォーマンスばかりしているのを見ると、そういう権力構造があるのかと勘ぐってしまう人間もいる、というのを理解してほしい。

もう一点、ステージ上だけではなく現実の世界においても「女性はニコニコしていたほうがいい」という価値観はいまだに根強く、平気でそのような発言をするオジサンと出会った経験は枚挙に暇がない。

ただでさえ「見る/見られる」の関係には加害性がどうしても含まれてしまう。その中でさらに「男性が求める女性像」を演じることを求められているような印象のアイドルを見ると、私はどうしても「(自分を含めた)見る側」の加害性を頭にチラつかせてしまうのである。

そういった面倒なオタクである私は、長らく二次元、あるいは男性が見られる側であるコンテンツを消費することで、自分の溜飲を下げさせ(加害性も孕んだ)欲求を満たしていた。

 

そんな私がアンジュルムと出会い、彼女たちのパフォーマンスに関心を寄せられたことは、まさにものすごい「偶然」だったと言うしかない。

アンジュルムも決して、「100%彼女たちの自主性を重んじています!」というグループではないだろうし、そんなことは現実としてあり得ないだろう。

つんく♂さんがどこかのインタビューで「自立した女性がいい」的な話をしていたことを目にしたことがある。アンジュルムのプロデュースからはかなり前から離れているようだが、彼のこの価値観は、今のアンジュルムの周りにいるスタッフなども影響を受けていることだろう。

つまり、私の場合は、偶然、カッコいい女性のアイコンを求めていたところに、つんく♂さんや彼から影響を受けた人々が作り出す表現がピタリとハマった……ということである。

しかし、やはり無視できないのは、その表現を行うアンジュルムのメンバー本人たちのパーソナリティでもある。

 

和田彩花さんの卒業ドレスは真っ白なジャンプスーツである。ともすればウェデングドレスと見られてしまうであろうドレスだが、これは和田彩花さんのパーソナリティがその可能性を砕き、「白のドレス」に新たな意味を加えている。

彼女はこのジャンプスーツを着こなすことで、自立し、成熟した大人の女性となり、そしてまだまだ続くまっさらな未来へと旅立っていくのである。

そこに私は「カッコよさ」を感じるのである。

 

和田彩花さんの真っ白なドレスが、和田彩花さんのパーソナリティによって既存の意味付けを破壊したように、アンジュルムはいつも、既存の概念や意味付けを破壊することを行っている。

 

たとえば「2期」。私なんかより(もし読んでいる方がいれば)読んでいる方のほうが詳しいであろう2期の暴れん坊エピソードの数々が彼女たちにはある。

しかし、上下関係やマナーに厳しいと言われているハロプロで、先輩たちは彼女たちに対してあたたかく接してきた。そのあたりのエピソードを今更まとめるつもりはないが、やはりこのことも既存の概念を破壊する行為である。

ハロプロに限らず、この社会には「上下関係」が多かれ少なかれ存在している。しかし、私はかなり「サヨク」なオタクであるので、厳しい上下関係はいずれ権威主義となり、独裁をなんの違和感や疑問も持たず支持する感覚を養うものと感じてしまうので、どうしても忌避してしまう。彼女たちに当時そういった感覚があったとは思わないが、たとえば彼女たちは、お弁当をとる順番について「みんな食べたいものは違うよね」と好きに選ぶ新しい基準を作った。

その結果として、ファンから「動物園」と言われてしまうほど笑顔のあふれるグループになったことは、10代や20代前半の多感な時期を過ごす場としてとても良い環境になっていると言えるだろう。

 

また、彼女たちが歌う歌詞にも注目したい。

私は「泣けないぜ…共感詐欺」が大好きだ。なぜなら、私にはまさにこの曲のような体験があるからだ。

「涙が出ちゃう話題の」ヘテロ恋愛「映画で」「ちっとも震えなかった涙腺」の経験がある。

突然だが、私はAROACEを自認している。(念のため説明すると、AROとはAロマンティックの略で、他者に恋愛感情を抱かない人。ACEはAセクシュアルの略で、他者に性的欲求を抱かない人のことである。)

実際のところ、そんな私は映画に全く共感できず、泣いていないどころか物語の場面の数カ所にムカついてすらいたのだが、周りを見渡すと驚くほどにみんな泣いているのである。その瞬間、私は「ここにいる私以外の人はみんな恋愛が理解できて、だから泣いてるんだ……!」と疎外感に包まれた。

AROACEである自分を受け入れてから何年も経つのに、「私は人の心がないのか?」などと落ち込んでしまったのは今思い出しても辛い経験だった。勧めてくれた友人にも「全然泣けなかったしむしろムカついた」とは言えるはずもない。

今も「泣けないぜ…共感詐欺」を聞いては、「ヘテロ恋愛で泣けなきゃ人の心がない」と言う私の心の中の弱い部分に「それって誰が言ってること?」と返してAROACEである自分に自信を取り戻している。

この社会はいまだにヘテロセクシュアルが優先されていて、法律による同性婚すらままならない状況だ。そのほかにも、日本社会ではさまざまな偏見や差別が当たり前のように目の前を流れていく。その中で「デリカシーなさすぎる平均律」「『私たち』の輪に入れない」と歌う彼女たちの姿に救われるのは、きっとAROACEである私だけではないだろう。

「私たち」の「普通」をさらりと壊してくれるアンジュルムが、やっぱりカッコよくて大好きだ。

 

アイドルという職業について語れるほど、私はアイドルに詳しくないし、正直興味もさほどない。それなのにいきなり批判的なことを書いたりして不安な部分もある。しかし、やはり自分がアンジュルムというアイドルを好きになったのは、10代や20代前半の女の子たちがやりたいように大騒ぎしながらのびのびと笑い、そしてこれまでの概念を壊して新しい時代を築き上げる表現を行っているからである。

どうかこれから先の未来も、オタクや偉いオジサンの言うことなどさほど気にせず、ピンクでも赤でも黒でも、好きな色のリップを塗り(あるいはなにも塗らず)、のびのびとした笑顔で過ごせるアンジュルムであって欲しい。

(こうして結局、笑顔を強要してしまうオタクである自らの暴力性について考えながら、この記事を終える。)